JAPAN TOWN

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あまりインパクトがなく、何の写真か分からない人が多いと思う。
これは10年以上前の Japan Town 入り口である。
大昔のここは普通の交差点で4方向から車が出入りしていた。このブログのどこかにその頃の絵葉書を載せたページがあるはずだ。その絵を見ると大型の乗用車がまだたくさんあったから、1970年代初期でオイルショックがある前の時代だろう。
私がサンフランシスコに来た頃は既にピースプラザという名の歩行者専用エリアになっていた。
この角の SOKO HARDWARE は日系人が戦前あるいは戦争直後から営業している店で、アメリカ版100円ショップができる前は日本人なら皆が行ったことのある所だ。
アメリカの金物屋では入手できない日本製のいろいろな便利グッズその他、とにかくここに行けば工具でも食器でもなんでも買えたのである。本格的な日本製の大工道具などは、ここ以外の何処に行っても入手が難しい。
隣は California Bank となっている。私が初めて見た頃ここは住友バンクだった。バブルの崩壊までは日本の多くの企業がアメリカに進出していたから市内には SANWA BANK もあった。
あの頃は日本から来る人も今と比べれば桁違いに数が多く、それに伴ってジャパンタウンの店もみな繁盛していた。ツアーによってはここもコースの中に含まれていたくらいだ。日本から来た人がわざわざこのエリアで買い物をするとは思い難いが、ツーリストの立ち寄る店で働いている人やそれ以外の人達もみなその影響で好景気だから、結果としてジャパンタウンの店が潤っていた。
なにしろあの頃は空港からホテルまでの送迎が大型バスで、一度どこかのホテルを仮の集合場所に決め、そこで各ホテルの説明をしてから別の車で各所に行ったくらい人が多かった。
今はひとつのフライトで二人(つまり一組)のお客さんしか居ない時代である。いくらすべてがツアー料金に含まれているといっても、フライトごとに車が一台ガイドが一人という状態ではビジネスとして成立しにくい。空港使用料・駐車料金・燃料代・人件費その他を考えたら、実際は旅行会社が赤字を生む機能しか果たしていないのが現在の日系旅行業である。
1970年代中期までに働いていたガイドはかなり待遇が良く、皆あきれるほど良いアパートに住み、昔は住宅価格が安かったこともあってずいぶん凄い所に家を買ったりしていた。現在の「ガイドなんて全員が年金受給者。年収は確実に生活保護が必要なレベル。」というのとは本当に隔世の感がある。
あれっ? また本筋と違ったことを書いている。
取敢えず皿洗いの仕事を確保できた私は、その日から急に恵まれた生活を始めたのだ。
これもまた今では考えられないことだが、当時そのレジデンスクラブには従業員用の部屋がなかった。
つまり、普通の泊り客でありながら「宿代不要・食費不要」の素晴らしい生活がその日から始まったのである。