Old San Francisco

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写真つきで更新せずにコメントだけ書くと、誰も見ないことがわかった。
だから、今日は取り敢えず何かということで1980年頃の1枚を載せておく。
これはもう既に使ったことのある写真かも知れないが、新しい人は昔のことなんて知らないから、ここはバックレておこう。

昔はカリフォルニアも前側のナンバー(英語でライセンスプレート)なしでお咎めなしだった。
ネバダ州は今でも後ろだけが義務で、内陸側の州は最初からプレートは1枚しか発行されない。

これはアメリカで最初に知り合ったほぼ同世代の友人であるヒデキという男が働いていた所の近くだ。古い住宅地はこのように電柱が立っていて、アメリカらしいきれいな街並みとは少し異なる。
霧が濃かったから夏なのだろうか?
もし、今は東のほうに住んでいるKさんがこれを見ていたら「スタニアンストリートですよ」と強調しておきたい。(懐かしくありませんか?)
アメリカに来たばかりの頃は当然ながら日本人の思考法だから、このDatsunを見たとき、ヒデキにどういう人がああいった車に乗るのかと聞いた。答えは「豆腐屋の息子」と返ってきた。
彼の友人に豆腐屋の伜がいて、その男がちょうどDatsun240Zに乗っていたからである。
昔の基準なので若い人には分からないと思うが、昭和の日本は職業や地位で乗る車が決まっていて、サラリーマンはサニーが精一杯、課長がブルーバードなら部長はローレル、それ以上がセドリックという調子だった。
そういったある種の階層社会を知っている私だからこそ誰がフェァレディーに乗るのか興味があったのだが、アメリカにそういった発想も階層もじつは存在しなかったのである。
マクドナルドで働いている貧乏学生が中古のリンカーンに乗り、そこのマネージャーが新車のサニーに乗っている。それがアメリカの社会だった。
ゴメン。今日はいかにして滞米資金の枯渇し始めた私がその後の生活をしていたか書くつもりだったが、まったく関係ない話で終わってしまった。
じつは、今も少し酔いが回った状態なのである。
たまに一升酒飲んでも人はアル中にならない。しかし、毎日少しずつ欠かさず飲むと簡単にアルコール依存症になるそうだ。
ということは、私など20年前からもうアル中患者だ。
反省しながら、明日も同じことを続ける老い先短い私なのである。