JPN

電柱と電線がなければ日本の景色も欧米に近くなる実例だ。
こう見ると、まるでサンフランシスコのベイブリッジではないかと思う。
4枚目の写真にあるミニバンと軽自動車の対比が面白い。
アメリカでは確かにミニバンがその名のとおり小さいバンなのに、日本の軽はそれを更に小さくしたマイクロサイズだ。
このマイクロサイズが日本に合っているように、日米のスタンダードはこれほど違うのである。商店も住居も家具も、何もかもが日本は本当に小さい。


日本で越年することが確定した。
ここで冬を体験するのも久しぶりだが、年末と正月まで味わうことができるとは思いもしなかった。何十年ぶりかのことである。
最近、日本の日常がだいぶ自分にとって“普通のこと”になってきたのが分かる。
狭い道・混雑した街・あふれる商品。そんなものが私にも見慣れた景色になったのである。
今でも慣れることができないのは、歩道を突っ走ってくる自転車だろうか。私が滞在しているこの街では、自転車レーンが設けられているにも拘わらず歩道を飛ばしてくる人が多い。
その他にも、日本を“言葉の通じる外国”として見る私は毎日いろいろなことを感じている。
淋しくそしてじつに残念なのは、それを共感する人が何処にもいないことだ。自分では何かを感じている。しかし、それを言葉にして整理するのが独りでは難しく、誰かとその不思議な感覚を共有して、表現や解説あるいは納得したいと思うのだが、似たような生活をしている人間がまったく居ないため状況を整理できないのである。
アメリカに行った人間が「この国って○○だよねぇ」と言うなら理解や共感はできる。ところが、日本を自らの出生地として知っている私がよそ者として再び日本を見て気づくことは誰とも共感しようがないのだ。なにしろ日本人は日本のすべてを普通のこと当然のこととして毎日体験しているのだから、私が何か言ってもそれ自体が通じないのだ。
日本の人は水の中で生きる魚類。私は両生類や水棲爬虫類だから泳ぐこともできるし水中の世界も知っている。しかし、水の中だけにいると溺れてしまう。魚ほどは自由に泳ぐことができない。困ったことに陸と水中両方に私を捕食する敵がいる。逃げる手段が誰よりも多いから一応これは良しとしよう。